前回から断食について書き始めている。
私は意志薄弱で、家で断食をするとか、週末は禁酒するとか。
何度も挑戦したが。全て挫折。
その後ヨガ断食に行き、はじめて断食を体験した。
その結果5日ぐらい食べなくても、全く問題がないということがわかった。
また食べ物やお酒がない環境があればそれほど食べたいとか飲みたいとかいう欲求は涌いてこない。
ただ、その後長期断食に挑戦してみてわかったことは。
短期の断食は効果が薄い、ということだ。
と言うのも断食については、様々な効果を謳っている記事がたくさんあるが、客観性があるものが少ない。
あるいは現在のところ医学的効果が証明されていないものが多いからだ。
私から見るといい加減な情報が蔓延していて、その過激さは精力剤の誇大広告に勝るとも劣らない。
絶対に確実なことは
①必ず痩せる
②内臓が休まる
これだけだ。
これは短期よりも長期のほうが結果が出ることばかりだ。
食べない時期が長けれがそれだけ痩せるし、内臓も休まる。
2週間も断食していれば、胃腸はほぼ活動を停止する。便も出ない。
もちろん食事をしないことによって消化に使われていた大量の酵素が体の各日の修復に回されて。
様々な改善が見られたりする。
視力が回復したり、肝機能が活力を取り戻したり。
精神的に落ち着いて、頭痛が治まったりと、人それぞれにあるとは思うが、神秘的な体験をすることは少ない。
一般的な話にしちゃうと間違ってしまうと思う。
また過大な期待を持って断食に臨むと、がっかりする可能性が高い。
タイトルに勃起力は高まるか?と書いたが、実は私、最初の長期断食の後、体力がもとに戻っていくにつれて下の息子もかなり元気になった。
しなびていた息子がそそり立つ、とまではいかなくても元気になったのはうれしかった。
短期断食のときには感じられなかったことである。
ただ、これも一般化はできないなって思う。
疲れが取れて健康度が増せば、あっち方面も自然に元気になる。
それは自然の理であって。
ある断食記事をみてたら、断食後あれがビンビンになってすんごいことになった、と書いてあった。
まそういう人もいるのかもしれないが、嘘くさい。
実は私、断食から帰った後、飲み屋のお姉ちゃんに断食行くとあれがでかくなるんでしょ?って言われて驚いた。
飲み屋の可愛いお姉様にさえそんなことを言われるとは・・・・そういういった俗説がまかり通っているんだなあって思ったんだが。
残念ながら、わたしのほうは少しは元気になったものの、でかくなるとか、そういうことはまったくなかった(T_T)
はじめての長期断食体験
私は前記事に書いたように、最初5泊6日のヨガ断食合宿に誘われて参加し、2年後に今度は自分で決めて4週間の断食を行うことにした。
場所は関西の某所で。日本で一番古い断食道場と謳っていた。
たしかに建物も古く、隙間風が入ってくるようなところだったがそれだけに趣深く、断食を行うにはふさわしいところのように思えた。
山の中腹にあるので、部屋によっては見晴らしが良いと思うんだが、わたしの部屋は残念ながらそうではなかった。
金額によって差があるわけではなくてたまたまだということだった。
その後、隣の部屋にいびきのうるさい人が入ってきた。
部屋を隔てる壁は紙のように薄いので、音はそのまま聞こえてくる。
あまりにもいびきがすごいので、眠れなくなったんで、たまりかねて部屋を替えてもらったが。
すると更に見晴らしが悪い部屋になっちまった。
しかも古い建物なので、人が廊下を歩くと床がギシギシ鳴って部屋の中にまで振動が伝わってくる。
朝はこの断食道場の創設者の方の講話がスピーカーから流れてきて。
その後、強制ではないが、広い仏間では毎日般若心経を読む時間があったりして。
異次元世界に迷い込んだ様な心持ちがした。
般若心経の話
般若心経は読経すると気持ちが良い。
断食にはぴったりだ。
意味は以下の様なものだが端折りまくりの超訳である。
私(釈迦)が知り得た真実とは「私は存在しない」ということだ。驚いたかもしれない、舎利佛よ。
でもこの世に「実体」はない。
その真実を知ったとき私は驚きは大変なものだったが、同時にまた苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。このことを「空」と名付けよう。
自分という存在は固定的なものではなくて流動的な動きの中のある状態にすぎない。
私たちは生まれて死ぬのではなく、はじめから「空」という存在のしかたで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実を「無常(むじょう)」と名付けておく。存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、ただただ変化を続けるだけである。
「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。
感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も形はなく、変化をする状態の中にある。あらゆるものは、有るようで無いのである。
しかしそれは、ただ無いのとも違う。
自分の周りの世界との関係性の中では有る、と言えるものだ。苦しみは、我々や周りのものが実体だと思い込む所から生じる。
あらゆるものは「空」であると知れば、どんな苦しみも、実体がない自分が作り上げた妄想であることに気づく。
だから苦しみから逃れようとして苦しむことなど、あるはずもない。存在が「空」としてあるという真実を見抜く智慧のことを「般若波羅蜜多」という。
この知恵をたたえる呪文を教えるからそれは原文のまま昔の言葉のままで声を出して読んでほしい。羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
読み方は以下
ギャーテーギャーテー
ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー
ボウジーソワカーこれにて講義終了(般若心経)
私これを毎日読経したが、お題目と違って意味があるものを読むのは楽しい。
それにしても。
今では人間の体は細胞が入れ変わって一年以内に殆どのものが別の細胞で埋め尽くされる。
(入れ替わらないものもある)
体の殆どが別の物質に取り替えられるのに、それでも自我が保たれる不思議。
この事実を今では多くの人が認識をしているわけだが、釈迦がそれを直感智で見抜いたというのはすごい。
また訳さなかったが。
不生不滅 不垢不浄 不増不減
全ての有機物無機物が原子からできていることも今であれば私たちは知っている。
あらゆる存在は、いろいろな原子が集まって形作られるが。
今の私の体を作っている手の一部はあるときは恐竜の尻尾だったかもしれないし、またあるときは植物の種だったかもしれない。
そうやって地球を貫く質量保存の法則を基盤として離合集散しつつ形を変えて変化していくのである。
そしてある形ができると、不思議な事に生命の「はたらき」が生じる。
私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。
「命」も「自我」も、それは変化の中のある局面に生じる不思議な「はたらき」だ。
これはいくら分解しても切り刻んでも見つけることができない。
命の働きを生み出す、たとえば私たちの形は変化していって、死という形で消滅するけれど。
それは単なる変化であり、また別の機会に何らかの形を取ればその方体の上に命の働きが宿るだろう。
しかしまた何かの形ができるとそこに命が宿るが故に、私たちはついそれが実体であると思いこんでしまう。
ここに苦しみの種がまかれる。
生老病死を苦しみと捉えるのは自分と世界を隔てる虚構に惑わされているだ毛だから、目を覚ませ、と般若心経では教えているのである。
般若心経を読んで、コレって宗教じゃなくて、科学だろう!現代の分子生物学の真髄を語っているような気になるのは私だけじゃない。
以下なんか生物学者による独創的な般若心経の現代語訳だ。
内容紹介
生命科学者による現代詩訳・般若心経絵本。
当代きっての生命科学者・柳澤桂子と生命曼荼羅を描き続ける人気日本画家・堀文子が合体! いままでで、最も明晰な日本語と最も美しい映像で般若心経に込められた「いのちの意味」が感得できる。リービ英雄の英訳付。
朗読している動画も見つけたから載せておこうかな。
いかん。
つい般若心経の話に脱線してしまったが。
食べなくても体はドンドン変化していく。
断食をすればきっと体が良い方に変化していくだろう。そうであったら良いな!
そのことを般若心経を読むたびに意識した。
そんなことはすっかり忘れていたんだが、記事を書いているうちに思い出した。
それでついのめり込んでしまった。
結構般若心経って心理的な効果があったんだなあと今にして思う。
断食センターでの過ごし方
ただ、そこはそれ以外にイベントはなく、断食に対する講釈も一度あっただけ。一日の大半は自由時間であった。
最初の長期断食だったんで、不安もあったし、時間と使い方もわからなかったが、
ここは何も足さないことが健康の秘訣、とばかりに余計なことは一切してこなかった。
なので別便で本を送っておいたので、それを毎日読んでいた。
断食道場のある辺りは物部氏の歴史や神武天皇の東征伝承などが深く刻まれた地域だったので、それらの痕跡が残る場所を散策しようと思っていたのだが。
碑などは思いの外遠くにあって。
何も食べない状態でそこまで行くのは行き倒れになっても困ると、ためらわれ、結局その辺を散歩するだけになってしまった。
ただできるだけ毎日散歩はした。
散歩をしないとすぐに足が弱ってくる。
後はずッと部屋にいたわけだが、日を追うごとに力が抜けてきて、頭がぼーっとしてくる。
そうなってくると殆どの時間をただボーゼンとして過ごすのみ。
難しい本も読む気がしなくなるので、池波正太郎の本などを主に読んだ。
ちなみにそのときは私はネットをやっておらず、携帯も持っていなかった。
その後、周りから、わたしが持っていないと待ち合わせや、急な用事があったときに不便だからと言うんで無理やり持たせられたのである。
だから、携帯メールすらわたしが比に行くようになるまでは全くやったことがない。
当然わたしが断食に来ている間は、誰も私とは連絡が取れなくなった。
どうしても緊急というときには断食道場に連絡すればいいんで。
行き先だけは教えておいた。
そうして外界とのしがらみを断ち切っての断食修行であったので神経も休まってきた。
日常生活では何やかやあるから、そこまで力を抜くのはなかなかできないことだと思う。
断食はそういう意味でもお勧めだ。
強調しておきたいことはお腹はすくけど飢餓感はなかったということ。

ほんと?私食べないなんて信じられないわ
人によるとは思うが、何も食べなくても無理しないで我慢ができる。
ここは、恐怖心を持つ人がいるので強調しておきたい。
やることもないので一日に数回体重計に乗ってみたが、断食しているその割には体重は減らない。
断食しても最初はなかなか体重は減らない。
コレも知っておくと焦らなくてすむ。
でも心と体は休まったので。
すぐに痩せなかったとしてもこれはなかなかいいなあと思うようになった。
私が退所するときには腹の脂肪がほぼ消費されてしまっていて、腹の皮膚がしわしわになっていた。
ただし体重は約9キロの減少だった。4週間の断食にしては大したことがないとも言える。
最初の長期断食で感じた問題点
この断食道場で不満だったただ2つのこと。
一つは回復食が長すぎたことである。
回復食とは全く動かなくなった胃や腸を少しづつ元に戻していく食事のことで。
回復食をきちんと摂らないとリバウンドが起きる可能性が高いという話ではあった。
回復食をどうするか、ということについては各道場の方針があるので。
さまざまなだが。
断食した日数と同じだけ回復食を摂るというのがそこの方針で。
28日のうち14日が完全断食。水だけの生活だったが。
残りの14日は重湯から始まっておかゆ、少量の玄米食。と胃を慣らしていき。
5日目を過ぎた頃からは家で食べるのと同じぐらいの量の食事が出てきた。
もちろんおかずなどは野菜ばかりで。体に良いものばかりだが。
最後の方は飽きた。
今にして思えば。相談をすれば改善してくれたと思うんだが。
何しろはじめてのことだったんで、忠実に従ってしまった。
もう一つは、栄養学の裏付けが弱かったこと。
断食が何も食べないと言っても。
今の栄養学は進歩しているので、もう少し科学的な要素が取り入れられてたほうが良いなと思った。
たとえばの話、もっと痩せたいと思えば、水だけよりも少しは食事を取りながらやったほうが痩せる。
また、断食が辛い場合には果物などを少量食べながらやると、しのげるとか、今は様々な対応をするところが多い。
回復食については、断食した日数回復食を摂るというのは今はあまり流行らないと思う。
昔ながらのやり方もまたいいものだが、そういうことでちと精神論に傾いていたかなあという印象だった。
おすすめできる点
ただしコスパの点ではかなり安い方だと思う。 私は断食をするんだったら長期が良いなあとは思うが、一日あたりのコスパが高いと無理が出る。
そういう点ではお勧めの断食道場ではある。
またうるさくないのもよい。
過剰サービスは断食には必要がない。
短期の場合は特にだが、あれこれとおせっかいが多かったりする。
これは緊張を強いることだ。
断食の目的からすると、動なんだろうと思う。
そういうことがないのは非常に素晴らしい。
般若心経を読むのだって、別に強制ではなかった。
しかも。
私断食が終了した後、私はその県の県庁所在地のホテルに泊まって寺院や神社を観光でまわったが。
そういう楽しみもできる。県庁所在地までは電車で数十分。いい場所にある。
場所は特定されないように、と書かなかったがここの日本で最も有名な大仏とか。
日本最古の木造建築群があるこことか。
久々に行ったが一人旅だったんで、ゆっくり見られてよかった。
断食後の清々しい気持ちで邪念無く拝観できて嬉しかった。

バレバレじゃん、みんなわかるよ
それから一年半後、また断食に行こうかなと思ったんだが。そういうこともあって別の断食センターを選んだ。
とは言えまた断食をやってみたいと思ったのはこの日本で一番古い断食道場のおかげである。
それから5回。私は別の同じ断食センターに長期断食に行ったのであるが。
そのことについてはまた別記事で書きたい。
今回はここまで。