森田童子の死に際して

森田童子が65歳で亡くなった。
一部の人達の間で大騒ぎである。


最近は私も父が亡くなったせいか特に死については敏感になっている。

父親の49日の法要で田舎に帰って思ったこと 遺伝子を残すことの大切さ

今回はまた死について書いてみたい。

人は生まれたときから死に向かって歩き始める、とはよく言われることだ。
だが日本人は死を恐れる気持ちが一神教の世界の人達よりも少ないと思う。

生に限りがあるからこそ今生きていることに価値がある。

これは日本人の無意識のうちに流れている観念である。つまりは死と敵対せず、受け入れているのである。

生きてる限り生殖活動に励むのもまた尊いことなんである。
昔の日本人はセックスに対してタブーが少なかった。と言われている。
なぜならそれも自然なことだからである。

死とエロスは隣り合わせの関係である。

多くの動物は生殖行為をしたら死んでいく。
カマキリなどは生殖行為をしたあと、子供がよく育つようにメスの餌になって死んでいくのである。

勃起とエロティシズムと死 これらについて考えてみた 禁忌を犯す快感

生物にとって生殖を行い子孫を残すことは最重要の課題である。
が、人間はセックスしただけでは死なない。セックスも重要だが、生きている最中に他のこともやっている。
前頭葉が発達したおかげで未来のことを考える能力を身につけた。だから生きてる間に未来のために何某かの証を作っていこうとする。

しかしその事によって今この瞬間を十分に生きる力は退化してしまった。
そして人間はついに死後の世界まで妄想するようになった。
ついには永遠の生まで望むようになってしまったのである。

しかし人間は必ず死ぬのである。
そこで肉体が滅びたあとの魂という概念まで生み出したり天国を創作したりしたが。

日本ではそういう概念は極端には発達せずに、他の幾多の思想が入り込んできたにもかかわらず、無常観という確固とした素晴らしい思想が日本人の精神の底流に流れている。
これを世界には稀な素晴らしい思想だと絶賛したのがドナルド・キーンである。

彼はついに日本に帰化してしまった。

キーンが絶賛したのが徒然草で。

兼好法師は。

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに物の哀れもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。

と語り、死があるからこそ生が輝く!と言い切っている。キーンはそれがすごいと言っているのである。

何度か書いているが、無常観というのは非常に肯定的な前向きな思想であって。
日本人が誇りとすべきものである。と私は思う。

そんな日本人が古代から受け継いできた死生観は仏教が日本に入ってきたことで理論化されていく。
「草木国土悉皆成仏」もその一つで。

眼に見えないすべてのものを含め、この世に存在するすべてのものが、私たちを本来の姿に立ち返らせようとして、間断なく働き変えているという意味。存在するすべての原始物質は、同じであり、すべてに仏性が宿るという考え方。

涅槃経に書かれたこの言葉は日本人の本源的な宗教観・世界観を表している。
この基盤があるからこそインドや中国では受け入れられなかった華厳経や法華経も日本に定着した。

仏教は宗教というよりも自然科学的な要素があるんだが。
更に日本人の世界観を強化したのは般若心経である。

僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、複数の宗派において読誦経典の一つとして広く用いられている。(ウィキ)

般若心経の中に「空」という概念があるが、それは一切のものは「移り変わる」という真理を表したものであって。
虚しいとか人生に価値がないとか。そんな事を言ったものではない。
同じ人の体だって数ヶ月でほぼ入れ替わってしまう。
そして100年お単位で見れば生きている人はほぼ入れ替わってしまうのである。

我を捨てよというのは真理を受け入れよということなんだと思う。

子供がすくすく成長してほしいと願うのに、自分は年を取りたくないと願うのは理に合わない。
そういうのを我と言うんである。
すべてのものは移り変わっていくのである。
それを受け入れて十分に生きてそしtれ死んでいきなさい、というのが無常観の思想である。

盛りがすぎればそれもまた良し。ちんぽが立ちにくくなったとしても、それをなんとか勃たせたりすることに喜びを感じて生きるべきなのである。

ED治療薬はあがくのに最適である。

シアリス(タダラフィル)は安全で毎日服用でき、ED 治療薬としてだけでなく、前立腺肥大や高血圧の薬として使えるってご存知でしたか?

100歳までエッチしたいなというのが私の願望である。

タミイ静止画1

それって我でしょ?矛盾してるでしょ。


がっちゃん静止画1

たみいもいつまでも私二十歳とか言うのをやめろよな

兼好法師は更に。

花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情ふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。

桜の花は満開だけを、月は満月だけを見て楽しむべきものだろうか。いや、そうとは限らないだろう。
雨の日に見えない月を思い焦がれたり部屋に閉じこもり、春が過ぎていく外の様子を知らないで(ただ想像して)いるなどというのもそれはそれで風流な味わいがある。
今にも花ひらきそうな桜の梢や、桜の花びらがいっぱいに落ちている庭などは味わい深い。

と、物事には盛りを過ぎても見どころはたくさんあるものだと語っている。

「すべてのものは移り変わる」というこの世の法則を受け入れればそういう態度になる。
様々なことをより良く味わうのに見栄えが良いものだけにとらわれる必要はない。

チンポコがしなびているからと言ってそういうのを使ってセックスに励むのもまた良きかな・・・・・・(^^ゞ

良くないかな(^^ゞ

死もまた味わうべきもの

森田童子は私が高校生の時に初めて聞いてファンになった。
彼女の歌は決して前向きなものではなく。
例えて言えばおとなになっても自閉症が治らず、必死で自分の内面に向き合って言葉を紡ぎ、なんとか外界と接点を保とうとする作業のようだった。
切なく、繊細な、でも心を抉るような歌の数々。それは唯一無二のものだった。

だからかどうだか彼女はデビューしても必ずサングラスをかけ、素顔をさらさないようにしていたし。
本名も明かさなかった。
そしてしばらくして淡雪のように消えてしまった。
音楽は残っていたので私は時々聴いていたんだが。
私自身20代後半からはテレビなど観ない生活に入ったんで。
その後「高校教師」というテレビドラマの主題歌として彼女の歌が採用され、100万枚に迫る大ヒット担ったということは長らく知らないでいた。

そして今回の死。
引退後のことは誰も知らないし。
今回亡くなったと言っても死因もわからない。
如何にも森田童子らしい亡くなり方。

この方は自分の人生を十分に生きて死んでいったと思われる。
そして亡くなっても彼女の素晴らしい歌は、彼女の魂の歌は残る。
おそらくは今後もずっと聴かれ続けるのではないか。

改めて聴いてみたが、彼女のファーストアルバムでさえ今聴いてもまったく色あせていない。

マスメディアに毒されず潔く去っていき、リバイバルブームがあってもでてこなかった。
音楽業界は汚染され、私はずっと日本の音楽を聞いてこなかったが。
思うに、今の音楽業界は本物の才能を大切にしていない。
ただの作り物だ。
そのせいもあって今CDは全く売れない。

森田童子の楽譜は亡くなったことが知られてからすぐに完売してしまったと言うが。
そんな歌手はそうはいないだろう。

わたしには森田童子の存在は、盛大に惜しまれて亡くなった忌野清志郎に匹敵する。
私の場合森田童子は高校生の時から聴いていたが。
忌野清志郎は彼が亡くなって数年後に初めて聴いた。
そのあたり今だにみんなに馬鹿にされるところなんだが・・・・

そして腐った音楽業界にも本物のロッカーが存在していたことを知った。
彼はガンで亡くなったが一回でも良いからライブで聴きたかったなあと後悔したものである。

坂本冬美らと一緒のHISも良かった。

だが私の中では数十年もの間森田童子の歌が頭の中を流れ続けていたんである。

忌野清志郎はその早すぎる死を惜しまれたが、森田童子だって現代では65歳での死は早すぎると言える。
もはや活動を停止している歌手であるのにその衝撃が少数とはいえファンの間で広がっている。

こんな惜しまれ方をする森田童子は幸せな死を迎えたと私には思える。
本人が望んだ死に方であり周りの反応だったのではないか。

いずれ名声に包まれて死んだとか、幸せに死んだと言ってもその評価は死後に定まることも多い。
以前カサノバのことを紹介したが。

カサノバだって亡くなる前は落ちぶれて図書館の司書をしていた。
周りからは見捨てられ痛風で苦しみながら。
自分の過去の栄光を書き尽くしたのである。
亡くなったときにはたった一人の身内である甥っ子が遺体をを引き取った。
そしてそんな惨めに死んだ男が今や亡くなる直前に書いた自伝(ホントか嘘かわからない)によってモテモテのスケコマシの代表のように崇められているんである。

個人的には死ぬのが嫌だとは思わないが、亡くなるときには苦しまないでぽっくり逝きたい。
そのためにはある程度歳をとってから死ぬのが良いようである。
わかいうちに癌で亡くなった私のいとこがいるが。
その苦しみは相当なものだった。

昔の人は薬が十分でなかったから苦しんだようだが、現代ではかならいの程度苦しみは回避される。

詩を味わうと言ってものたうち回って長い間苦しんで死ぬのは避けたい。
そのためにも薬やサプリの知識は必須だと思い、このサイトを作っている。

 

65歳で死んだ音楽家

ついでだから65歳で死んだ音楽家のことを調べてみた。
大物が死んでるんだね、65歳というと。今回は二人だけ紹介しておこう。

バッハ

森田童子と同じ65歳で亡くなった超有名な音楽家といえばバッハである。

引用元
By The Face of Bach / Elias Gottlob Haussmann, Version of 1748 [1], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61564

 

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685年3月31日(ユリウス暦1685年3月21日) – 1750年7月28日)は、18世紀のドイツで活躍した作曲家・音楽家である。 バロック音楽の重要な作曲家の一人で、鍵盤楽器の演奏家としても高名であり、当時から即興演奏の大家として知られていた。バッハ研究者の見解では、バッハはバロック音楽の最後尾に位置する作曲家としてそれまでの音楽を集大成したとも評価されるが、後世には、西洋音楽の基礎を構築した作曲家であり音楽の源流であるとも捉えられ、日本の音楽教育では「音楽の父」と称された。

バッハ一族は音楽家の家系で数多くの音楽家を輩出したが、中でも、ヨハン・ゼバスティアン・バッハはその功績の大きさから、大バッハとも呼ばれている。J・S・バッハとも略記される。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハは後世「音楽の父」と称されたが、存命当時の彼に対する評価は低かった。
バッハは最初の妻との間に7人、二番目の妻との間に13人の子供をもうけたが。
晩年はライプチヒ聖トーマス教会の楽長となったが間もなく視力が衰え始めついには完全に盲目となった。
彼の死の様子は後年創作された伝記によって美化されたが、実際の様子はわかっていない。
直接の死因は卒中であったことはわかっている。
また彼は当時は名声に格段の差をつけられていた同じ歳のヘンデルにも黙殺され、楽長としてのささやかな名声を得てはいたが。
作曲家としては存命中は全く評価されず、作曲家としての圧倒的な名声を得るまでには死後一世紀を要した。

つまり盲となって仕事の上でも失意の状態で、最後は脳卒中で倒れて死んじまった。
結構不幸な死に方をしている。
臨終の様子を知るのは楽しい。
あの大バッハともあろうものがこんな死に方をするなんて。
もちろん亡くなるときにはバッハは後世大音楽家としてヘンデルをはるかに凌ぐ名を残すとは思っていなかったに違いない。

ベルリオーズ

フランスのロマン派音楽の代表として有名なベルリオーズもまた65歳で亡くなった。

引用元
By orignal:アンドレ・ジル (1840–1885)別名Louis-Alexandre Gosset de Guines説明フランスの 文筆家、イラストレーター、風刺画家および ソングライター生年月日・没年月日1840年10月17日1885年5月1日出生地・死没地パリシャラントン=ル=ポン典拠管理: Q518827VIAF: 59204500ISNI: 0000 0001 2101 6763ULAN: 500017105Open Library: OL2418963ALCCN: n85303063WorldCat – Image of the painting, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27374

ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz, 1803年12月11日 – 1869年3月8日)は、『幻想交響曲』でよく知られているフランスのロマン派音楽の作曲家である。この他に『死者のための大ミサ曲』(レクイエム、1837年)にみられるように、楽器編成のはなはだしい拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りした。

ベルリオーズの肖像はかつてフランス10フラン紙幣に描かれていた。

彼の業績は素晴らしいものだったが、生前は彼の作曲した交響曲はあまりにも大作すぎたため、演奏するのが難しく、また演奏会が開かれても失敗することが多く。
生前は経済的に苦しみつづけ、また二人の妻との葛藤と死別。また健康面では神経性の胃炎に苦しみ続けた。
そのため69歳以降は作曲も評論もやめてあたかも死を待つ状態で孤独に暮らした。
唯一の希望は彼の息子ルイであった。
しかしその息子が33歳の若さで熱病でなくなると半狂乱になって立ち直れなかった。
その年気を紛らわすためにロシアに演奏旅行に出かけたが、寒さのために体調を悪化させ、帰国後病に伏した。
翌年1869年3月8日。パリのアパルトマンで生涯を終えた。
死の翌年の命日3月8日にパリのオペラ座で彼の記念演奏会が行われ、その演奏会が大成功を収めたことで彼の大作曲家としての地位が定まった。

彼もまた死の直前は苦しみの中にいて。失意の中で亡くなった。
後年紙幣の肖像に使われるほどの有名人になるとは思いもしなかっただろう。

彼はまたロシア音楽の父とも言われ。その影響は測りしれず尊敬を集めた。

ノーマン・レブレヒトは次のように述べている。

「ベルリオーズが訪問するまで、ロシア音楽というものは存在しなかった。ロシア音楽という分野を鼓吹したパラダイムは、ベルリオーズにあった。チャイコフスキーは、洋菓子店に踏み込むように『幻想交響曲』に入り浸って、自作の交響曲第3番を創り出した。ムソルグスキーは死の床にベルリオーズの論文を置いていた

彼の作曲家としての名声は1960年台に復活を遂げた。
彼もまた死後に初めて名声を勝ち得た人間であった。

これなどは名演である。

 

ということで森田童子の死を契機にもう一度彼女の歌を聞き直しながらあれこれ考えたことを書いてみた。

森田童子はやっぱり良いわ。
彼女の歌を高校生の時に知ることができて幸せだった(合掌)

タミイ静止画1

私はでも知らない森田童子なんて初めて聞いた

世の中はかくも無情である。