最近父親がかなり危なくなっていてついに食事が喉を通らなくなって寝たきりになってしまった。
これからどのくらい生きられるのかわからないが。
せいぜい数ヶ月だと思う。

人は生まれた瞬間から死に向かって歩き始める、と言ってた人がいるが。
人生において何も確実なことはないがただ一つ。死は確実に訪れる。

だから覚悟はしているものの実際にその時が来ると思うと非常に辛い。

私は実家を離れて生活しているが、今後は頻繁に田舎に帰って世話をし、亡くなれば様々後始末をしなくてはならない。
コメントを頂いたりしているのに返事もせずに申し訳ないが、暫くの間ご寛恕いただきたい。

記事の更新はしていくつもりだ。

死についてのカテゴリを追加してこのサイトを育てることに

それで元々死にまつわることを書こうと思ってて。
新しくサイトを立ち上げようと思っていた。

医療系グーグルアップデートが行われて以来このサイトのアクセスが伸び悩んでいて。
これがアルゴリズムの変更によって起きている異常これを跳ね返すのは大変だなと思っていて。
死について書くのは別のサイトにしようと思ったんだが。

エロティシズムと死は同じ位置づけ

生と死とエロティシズムは私にとっては同じものなんで。
別に沢山の方に読んでいただかなくても構わないからこのサイトに死のカテゴリーを付け加え、まとめることに決めた。
そもそも死について沢山記事を書けるとも思えないんで。

葬式をどうするかとか、そういった実用的な情報を提供しながら、ついでにわたしが本当に思っていることなどもマスターベーション的に書き綴っていきたいと思う。

それで死とエロといえば思い出されるのがフランスの思想家ジョルジョ・バタイユ。
彼は第二次世界大戦の惨劇を見て、心を痛めるとともに。
これを資本主義経済が紡ぎ出し蓄積されたエネルギーが破滅的に消費されたものだと考えた。

そんな破滅的なエネルギーがどこから来るかといえば。
動物から人間になるために獲得したものと引き換えに、何かを破壊したい、利益や価値の世界から解放されたい、という人間の根本にある動物としての欲望おさえこんだからだという。それはさまざまなタブーとして現在も存在している。
その自己破壊の欲望が臨界点を超えた結果爆発したんだという。

利益があるとかないとか、価値があるとかないとか。そんな生産的合理的な価値判断の中で生きることを余儀なくされた人間。
労働し自己保存本能を最大化する人間。
しかし人間は同時に動物の存在である。
獣性を抑えるのには本来は無理がある。

その歪みが自己破壊本能として折に触れて出現する。まさにこれこそが人間の性だ。しかしその衝動をそのままにしていては秩序は保たれない。
だから死に至るあらゆる破壊衝動は禁忌(タブー)として抑えられているのだ。
と言うか抑えることを通じて人間社会が保たれているんである。

しかし元々過剰にあるエネルギーはどこかで消費しなくてはいけない。

バタイユはその死を希う過剰な衝動を直接的な暴力によらずに別の象徴によって発散させるための装置について考察した。
そしてそうした象徴的な「死」の現れが暴力であり、エロティシズムであるとした。または集団としての祝祭であった。
暴力はスポーツや格闘技、オリンピックなどで置き換えられた。性欲は祭りの中で乱交という形で解消された。
それを蕩尽といった。

この蕩尽は合理的でも価値的でもないがそれなくして秩序は保たれない。なのでバタイユはそのエネルギーを「呪われたもの」と表現した。
今まで蓄積した富を惜しげもなく、無意味に使い果たしてしまねばやまぬ破壊だからである。

私達は全てを女性に貢いでしまう愚かな男性がいることを知っているが。
その非合理的なエネルギーは私達の誰もが持っているものである。

死=殺害の禁忌と並んで強くタブー視されているものが性的なもののタブー。
これはバタイユによるとSEX(生殖)ではなくてエロティズムであるという。
同じようで違うんだとバタイユはいう。

生殖は結婚制度によって管理される。結婚するまでは子供を作ることは禁止される。
このように人間は、欲求の断念によって動物性から脱して合理的な秩序を作り上げたといわれているわけだが。
労働の世界は不自由で、秩序は息苦しいものだ。
またそうやって管理され衝動を抑制されたSEXに満足できるはずがない。

なので本源的な欲求を満たすための性行為をしようとするんだが、それは禁止(タブー)を犯すことにつながる。
近親相姦なんかその例なんだが。


そこまでいかなくても欲望の禁止を旨とする労働と対立するものの一つがエロティシズムだと。バタイユは語る。
不倫が糾弾されることがよくあるが。
あれも管理外のエロティシズムだからだ。

それは暴力と並ぶ禁忌であって。自己破壊の衝動を誘発するものである。
orgasmeはフランス語では「小さな死」という意味も持っているという。
女性が絶頂に達したときに「イク」というのは「逝く」なんだだとはよく語られる話だが。
カトリックがセックスは生殖行為であるから感じることがあってはならないと厳しく戒めたぐらい危険な行為なんである。(^^ゞ
なぜならその瞬間に性欲は管理不能になるからだ。

しかしエロティシズムであれ殺人であれ、禁止は侵犯されるためにある。しかも死という至福の時を味わうためにタブーが存在しているという逆説めいたことが起こる。

これについてはヤフー知恵袋に詳しく書いている方がいるのでそれを引用をしておきたい。

バタイユにとって重要なのは禁止を打ち破る力です

自然界の動物たちは自らの欲望に溺れるがままに生きています。人間も動物ですが、人間は理性的な動物で、欲望のままに生きる動物としての自己に「否定」を突きつけ、他の動物と自分たちとを区別します(この最初の「否定」によって主-客、俗-聖の構造が立ち現れ、自己意識という人間独自の性質が生まれるとバタイユはいいます。詳しくは『宗教の理論』を参照)

性の禁忌も最初の「否定」なのですが…この第一の否定は必ずその禁止=理性をさらに打ち破る第二の「否定」に連動しています。つまり禁止は侵犯を必ず誘発するということです。これがバタイユが重視する「二重の否定性」というものです(バタイユはこれをヘーゲル弁証法から学んだ)

この言い方をすると人間は元の単なる動物に回帰するだけ、ということになりますが、バタイユの場合には「二重の否定」は単なる元の状態への回帰を意味しはしません

それはやはり象徴的次元での回帰なのです

エロティシズムも性のタブーを打ち破る力ですから「二重の否定」の下に成り立つ象徴的な「死」ですが、これは人間存在独自の「死」の在り方です

エロティシズム以外にもポエジーpoésie、笑いrire、恍惚extase等の概念が価値や有用性=生産性を破壊される行為であるとバタイユは言います。これらを全てバタイユは供犠sacrificeと表現します(『エロティシズム』にも「供犠」の章があります)

本来禁止されるべき世界にタブーを犯す形で触れた時、人間は瞬間的に、生きながらにして死ぬ「至高性」状態に達するのだとバタイユは表現しました

ということで死と勃起を同じ次元で扱うのに名の問題もないと私はおもう。

バタイユに興味あある方は直接本を手に取られることをおすすめする。

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

 

 

内容紹介
つねに鋭い人間探求をめざしつつエロスと死の深淵にさまよい、
特異な文学世界を創りあげた奇才バタイユの全貌をここに集大成。著作集全15巻。
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浅田 彰 氏 推薦
バタイユは燃え上がる。この彗星は、今夜もまた、ヘーゲルとニーチェの傍をよ
ぎって異様な輝きを放つ。二人の巨人の間で微妙な振動をくりかえすその軌跡を
たどることから、現代思想のすべてが始まるだろう。
——————————————————————————– –

内容(「BOOK」データベースより)
労働の発生と組織化、欲望の無制限な発露に対する禁止の体系の成立、そして死をめぐる禁忌…。エロティシズムの衝動は、それらを侵犯して、至高の生へ行き着く。人間が自己の存続を欲している限り、禁止はなくならない。しかしまた人間は、生命の過剰を抑え難く内に抱えてもいる。禁止と侵犯の終りなき相克にバタイユは人間の本質を見ていった。内的体験と普遍経済論の長い思考の渦から生まれ、1957年に刊行された本書によって、エロティシズムは最初にして決定的な光を当てられる。バタイユ新世代の明快な新訳で送る、待望の文庫版バタイユの核心。

 

勃起を追求することと死を追求することは同じこと

いつまでも勃起できるようにしてセックスを楽しみたいというのはよりよく生きたいからだ。
私EDになった時かなり落ち込んだ。
もとに戻ってとってもうれしい。
もとに戻ることで恋人を作ろうとも思えるようにもなったしこんなサイトも作ろうという気持ちになった。
というのもEDを治すのにどうしたらよいかわからずにずっと悩んだからである。
結局EDというのはさまざまな原因があってのことだけど。
取り敢えずはED治療薬やさまざまな精力剤を試してみて、改めてED治療薬の素晴らしさを実感することになった。

そんな情報を共有したいという気にもなった。

勃起関連は今シアリスを毎日服用するというのを勧めてて、これまた評判が良い。
ホントだ、効果あるよ、などと飲み仲間に評判が良かった。
またいわゆる天然の精力剤よりも遥かに安い。

シアリス(タダラフィル)は安全で毎日服用でき、ED 治療薬としてだけでなく、前立腺肥大や高血圧の薬として使えるってご存知でしたか?

それで父親のこともあるが。
もともとよく生きるためには死に方も考えておかないといけないということを思っていた。
他人に対してよく見せようとしたって死ぬときには本性が現れるんである。
以下に死ぬかというのも大切なことである。

 

山田風太郎臨終図鑑

私の愛読書に山田風太郎の「人間臨終図鑑」がある。
世界の様々な有名人の臨終の模様を書き綴ったものだが。
それは残っている作品とか資料などによっているので必ずしも本当のことかどうかはわからないが。
さもありなんということばかりで非常に面白い。

山田風太郎は私の好きな作家のうち5本の指に入るが、最近「甲賀忍法帖」を読み直して改めて山田風太郎の凄さを思い知った。
甲賀忍法帖 山田風太郎忍法帖(1)

今後これをたたき台にしてさまざまな人の死について調べてみたい。
そしてこのサイトで記事を書き溜めていこうと思う。

たとえばカサノバの項であるが。
今手元に本がない状態で自分なりに思い出して勝手に書いてみたいが。
カサノバといえば女にモテモテという印象があると思う。

しかし、山田風太郎によると、カサノバの晩年は悲惨なもので。
どっかの図書館の従業員に拾われてやっとのことで老後を養っていた。
しかも若いときのとんでもない生活から、相手にしてくれる人もなく、かつ不健康な生活がたたって重度の痛風であった。
彼の人生はほとんど失敗だったんである。
しかし彼は孤独の中で自分の回顧録を書き始める。
そして過去のモテモテの時代のことを詳細に書き綴り、誰も読んでくれないその書きなぐりを唯一看取ってくれた甥っ子に託したのであった。

その後のことは大くの人が知るところなんで。

ウィキを引用してみたい。

死の床にあったカサノヴァはその自伝『我が生涯の物語』Histoire de Ma Vie の草稿をその甥カルロ・アンジョリーニに渡した。その草稿は後にジャン・ラフォルグによって脚色翻案され、1826年に刊行された。この翻案版よりの他言語翻訳版も各国で流布し、今日の我々のカサノヴァに対する評価もこの伝記に拠るところが大きい。英語で「彼はカサノヴァだ」との表現は、異性を惹きつける放蕩家、乱交家として定着している。カサノヴァ自筆草稿(フランス語版)を基にした、決定版刊行は1960年まで待たねばならなかった。

ということでは生涯に1,000人の女性とベッドを共にしたということが後世の人たちに信じられるようになった。
これが本当のことかどうかはわからないが当時のことが生々しく書かれていることは間違いがない。

カサノバは落ちぶれて失意のうちに亡くなったにもかかわらず、ちゃっかりと後世に名を残すことになったんである。

カザノヴァ回想録 (第1巻) (河出文庫)

のAmazonレビュい~には以下のように書かれていた。
なおこれは12巻まである。大作である。

司祭、三文文士、富くじ屋、スパイ、外交官秘書などあやしげな職業につき、ヨーロッパ中を放浪しながら有名な「女たらし」の生活を送ったジャコモ・カザノヴァの回想録。彼は60歳を越えてからオーストリアのある伯爵に仕え、城の図書館係となって孤独な晩年を過ごすことになった。その寂しさをまぎらわすために1日13時間、10年以上をかけて書き上げた回想録は、その内容の好色さ、活写されている上流階級の堕落、詐欺まがいの行為の暴露が危険視され、著者の死後160年を経てやっと完全公開されるほどだった。カザノヴァの青春時代は、かのタレーランが「人生の甘さそのもの」と呼んだ18世紀後半であり、この回想録はフランス大革命以前のヨーロッパ風俗をかいま見させる。フランス語で書かれた原文を訳したのは、アンリ・ド・レニエやアポリネールの翻訳もある窪田般彌。

第1巻の前半はカザノヴァのヴェネツィア時代。まず6代前からの家系の説明に始まり、カザノヴァは生まれ、パドヴァの学校へ行き、初恋を経験し、神学校を追放され、サン・タンドレア容斎に監禁され、ローマに向かう。本人の経験したことは何一つ隠されていない、会話や心理の微妙なところにまで届いているような記憶力に驚かされる。

 

なおカサノバが痛風に苦しんでいたことはわかっているが。
昔は痛風は治り様がなったがいまは改善できる。

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今は知識さえあれば歳をとっても苦しまずに生きていける。
死の備える意味でも薬やサプリの知識は必要だとおもう。

 

ということでこれから田舎に帰るが、私はデスクトップのパソコンでしか仕事をしないんで。数日記事の更新はないと思うが。
よろしく。

今回は急いで書いたんでたみいやまりちゃんには見せておらず、コメントなしである。