フィリピンでは土人としか思えないラプラプ酋長が第一等の英雄である。
褌一丁の銅像がいたるところに飾られている。
なぜ彼が英雄と呼ばれているかというと、世界史のその名も名高いマゼランを殺した人だから。
フィリピンの9割以上がカトリック教徒で。
そのキリスト教をフィリピンに初めてもたらしたのがマゼラン一行である。
マゼランといえば彼は殺されはしたものの残りの船員はほとんど瀕死の状態ではあったが母国にたどり着き、地球が丸いことを証明したことで世界史に名を残した。
記念切手にもなっている。

引用元
http://mapstampfan.at.webry.info/201111/article_3.html
そんな世界的有名人を殺したラプラプ酋長がフィリピンになるというのは。
日本でいったらフランシスコ・ザビエルを殺したら英雄になった、ぐらいの感覚で。
フィリピンンの屈折した深層心理が窺える?
まりちゃんも敬虔なカトリック信者だし。
キリスト教の素晴らしさを常々語ってはいるが。
なんかフィリピンのキリスト教って日本人が思っているのとかなり違う。
まず教会が暗すぎて陰気。
上記内容については別記事に詳しく書いたが。
キリスト教はまりちゃんが言うような「愛」ではなくて支配を強化するための道具として使われたと思われる。
もともとフィリピン近辺は多くの島に分かれているのでそれぞれに国を建て、生活習慣も言葉も違っていたし、宗教は土着信仰とイスラム教だった。
ウィキなどによると。
1380年頃に、イスラム教徒の学者ムクダムが、マレー半島からスールー諸島に到着し最初のモスクを建設し、イスラム教の布教が始まる。
その後1450年頃にはアブーバクルがスールーで、イスラム教君主国を作った。
さらにセリフ・カブングスアンが登場し、ミンダナオで最初のイスラム教君主国ができ。
フィリピンではイスラム教が宗教の主流を占めていたという。
マゼランの登場と死
そこに現れたのが悪魔の化身マゼランである。
当時のスペイン人の所業はまさに悪魔としか言い様がないものであって。
後に西洋が世界を支配下がために彼らが正当化されただけである。
キリスト教を盾にして異教徒を皆殺しにするなんざあ朝飯前。
何しろ改宗か死か!!だからキリスト教改宗率100%。
改宗しない人は死ぬんだから。
生きてる人は全員キリスト教徒となる。
以下ウィキの引用にも出てくるが、マゼランが尊敬していたコルテスはアステカ文明を完全に破壊し、黄金を略奪し、虐殺の限りを尽くし、インディオ女性を強姦し尽くした悪魔であって。
もしマゼランがフィリピンを完全征服したならば、フィリピンもそうなっていたに違いない。
マゼランが1521年セブに上陸してキリスト教を広めた経緯がウィキに詳しく書かれていたので一部引用をしておきたい。
フィリピン諸島での最初の寄港地には安全な無人島(ホモンホン島)を選んだ。翌3月18日、初めてフィリピン人つまり近くのスルアン島の住人に出会うが、マゼラン達は出会ったフィリピン人を「ものの道理が分かる人」と評価している。つまり、王の元での秩序ある社会を築き、文化を持っている人々とみなしたのである。3月28日にはレイテ島付近で出会ったフィリピン人にマゼランの奴隷であるマレー人エンリケが試しに呼びかけるとマレー語で答えが返ってきた。マレー人と交流のある地域に達したのだった。この後、レイテ島南端沖のリマサワ島で王コランプに出会うが、コランプはマレー語に通じ、エンリケの通訳を介して会話が可能になったマゼランとコランプは親密になりコランプは食料、マゼランは赤と黄色のトルコ服、赤い帽などを贈りあう。
マゼランとコランプはリマサワ島でフィリピン最初のミサをあげ十字架を立てている。さらにコランプは艦隊が補給をするのに最適な地としてセブ島を紹介し案内する。4月7日セブ島に達したマゼランはまずは大砲を撃ってセブ島民を驚かせ、上陸したマゼランはセブ王が付近の王(首長)たちの中でも有力であることを見て熱心に布教を始める。マゼランが熱心に説くキリスト教の教えにセブ王をはじめ500人が洗礼を受けた。また、マゼランとセブ王は何度も抱き合うほど親しくもなり、このことに気を良くしたマゼランはセブ島周辺の王(首長)たちにもキリスト教への改宗と(先にキリスト教徒になった)セブ王への服従を要求するようになる。いわば現地の政治情勢に到着したばかりのマゼランが首を突っ込んでしまったのである。
セブ島に3週間滞在しセブ王の王宮にもたびたび招かれ食料を補給し多くのセブ島民を改宗させたマゼランだが、何故か目的の香料諸島へ向かわず布教を続けている。セブ島民を改宗させたことで気をよくしたマゼランは強硬になり布教に当たって武力をちらつかせるようになっている。セブ島周辺の王たちのほとんどはマゼランに従ったが、改宗と服従を強要するためにセブ島対岸の小島マクタン島では町を焼くこともしている。このことでマクタン島民は反感をつのらせたようである。その後マゼランは4月27日マクタン島に突然出撃した。ピガフェッタによると、マクタン島の王の一人ズラは「マゼランの要求に従う気はあるが、もう一人の王ラプ=ラプが従わないので困っている。
小艇に兵を満載して救援に来てほしい」と伝えてきたからだとしている。これを聞いたマゼランはラプ=ラプ王を従わせようと3隻の小艇に60名の兵を乗せてマクタン島に乗り込んだのだが、ラプ=ラプ王は既にこれを察知しており、60名の内11名を小艇の警護に残して上陸したマゼランの49人に対して1500人の軍勢を配置していた。しかしマゼランは圧倒的に多数の敵を前にして部下に諸君、われらの敵であるこれらの住民たちの数に恐れをなしてはならない。神が我らを助け給うであろうから。諸君、思い出すがよい、あのエルナン・コルテス隊長がユカタン地方で、200人のエスパニャ人でもって、しばしば20万、30万の住民たちを打ち破ったということを我々が耳にしたのはつい最近のことではないか
— ピガフェッタ(2011)、pp.303 fと演説し、寡兵にもかかわらず戦闘に突入。しかし、30倍の数の敵に対しマゼランの兵はやがて敗走、マゼランの周りにはピガフェッタやエンリケを含め6から8人ほどが踏みとどまって戦うだけになる。多勢のラプ=ラプ王の兵の竹槍はマゼランたちの甲冑に通じず戦いは1時間に及んだが、ラプ=ラプ勢は防具をつけていない足に攻撃を集中し始め、遂にマゼランは戦死する。
ウィキの記述はなんとなくマゼランに好意的だが。
もっとちゃんと書くと。
実際にはマゼランの軍隊は最初から最後まで殺戮と改宗強制を強行した略奪者であって、随分と恨まれていたようである。
ウィキで「マゼランが熱心に説くキリスト教の教えにセブ王をはじめ500人が洗礼を受けた。」とあるが実際には1521年3月28日、フィリピンのセブ島に上陸したマゼラン一行。
火器で武装した艦隊の武力によって脅迫し、セブの領主であったラジャ・フマボンとその王妃をキリスト教に改宗させたというのが実際の所だったようだ。
そして住民約400名にも洗礼を受けさせ、彼らをフィリピン最初のキリスト教徒に仕立て上げた。
マゼランが未開の現地住民に洗礼を施した場所の後と言われているマゼラン・クロスはセブの観光名所となっていて、マゼランが慈悲深く洗礼を施している絵なんかが描かれている。
私はそれを見ると無理やり洗脳をしたんだろうが、と思ってしまう。(が、勿論まりちゃんには言わない)
その後、マゼランは周辺の島々にもキリスト教への改宗とマゼランらへの服従を強要する。
その武力に屈服したセブ周辺の酋長たちは死ぬには嫌だからキリスト教への改宗を受け入れる。
こうしてセブに上陸してわずか一ヶ月も経たぬ間にセブ島周辺はマゼランが占領してしまった。
ラプラプ酋長の戦い
しかしセブ島の対岸にあるマクタン島の領主 ラプラプだけはこの要求に屈服しなかった。
そして。
マゼラン側の最後の降伏勧告も拒否。
逆にマゼランを挑発し、奇策を用い、そこに乗っかったマゼラン一行を千数百人の部隊を配備し待ち伏せをした。
こうして始まった戦いを「マクタンの戦い」という。私が別記事に書いたものを引用。
セブからマクタンに向かったマゼランは夜明け前に岸辺を目指しましたが、干潮のために船が接岸できず、船から兵士をおろして上陸しました。このことが致命傷になるとは、慢心していたマゼランは思いもしなかったのです。そして戦闘開始。火器で圧倒するマゼラン軍でしたが、あらゆる方向から次々に襲撃部隊が現れ、火器の威力を発揮できる距離を確保できなくなったマゼラン軍は白兵戦に持ち込まれます。彼らの鉄砲は役に立たず、彼ら重い鎧は戦いの足かせになります。あっという間にマゼラン軍の精鋭は打ち破られ、次々と命を落としていきます。ラプラプの指揮がいかに見事だったかが伺われます。
引用元
http://www.excitecebu.com/wp-content/uploads/2015/02/a119.jpg海に足を入れたマゼラン一行が革靴を濡らして動きづらくなっていたのとは反対にマクタンの住民は裸足で軽快に動きまわりました。
ラプラプ軍のために石や貝殻を拾って彼らが動きやすいようにしたという逸話も残っています。当然住民はラプラプの味方でした。そしてわずか一時間ほどの戦闘の最中に、マゼランの足に毒矢が刺さります。さらには刀槍でメッタ斬りに会い、息絶えたことが記録に残っています。
このような歴史的な勝利はフィリピン人の誇りとなり今に至るまで語り継がれているのです。
その歴史的事実は演劇として伝えられ、現在でも毎年野外劇場で演劇として披露され、生きた歴史をフィリピンの人たちは学んでいるのです。
こうやってマゼランが破れたあと。
本来恨まれていたマゼランの艦隊首脳はセブ王の宴会の招待にノコノコと出かけていって皆殺しにされる。
残ったスペイン人たちは脱出するが、人数がすくなっていたため、一隻を放棄するという体たらく。
その後も航海を続け、スペインにようやくたどり着いたのが1522年。
1519年に出発してから3年後である。
出発時約270人の乗組員のうち帰国できた者はたったの18人だけであった。
その後しばらくはフィリピンがキリスト教徒に侵されることがなかったが。
1543年にはルイ・ロペス・デ・ビリャロボス率いるスペイン船団がサマール島とレイテ島に到着、この島々にフェリペ皇太子(後のフェリペ2世)にちなみ「ラス・イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas,フェリペナス諸島) 」と命名した(「フィリピン」の国名の由来)。
1543年フィリピンという国の由来となる、フェリペナス諸島と胃う名前がつけられた。
そして・・・・
1565年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ遠征隊がメキシコからセブ島に到着し占領、植民基地を作った。セブ島はヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領の一部となる。レガスピはこの帰路にフィリピンからメキシコに向かう航路を発見し(当時は帆船なので来た航路をそのまま引き返すことができなかった)、メキシコとフィリピンの間でガレオン貿易を始めた。ただしポルトガルやフィリピン原住民に最初の拠点セブを追われ、本格的な支配を開始できたのはフアン・デ・サルセードらによる1570年のマニラ征服と1571年のマニラ市の設置からだった。
マゼランが足を踏み入れてから50年後。
ついにフィリピンはスペインの植民地として徹底的な支配を受けることになった。
スペイン人の支配は苛烈を極めるが、それは別記事にする。
フィリピン人の心の奥にあるもの
いずれスペイン人の支配は苛烈で、何百年もの間フィリピン人たちは虐げられてきた。
その悪魔の所業を最初に食い止めたのがラプラプ酋長だというわけである。
フィリピンは貧富の差が激しく苛烈な社会であるから。
お金のためになんでもする人も多いし。
海外の出稼ぎ率もアジアでナンバーワンである。
しかし彼らの誇りは高く。
下手に出ていても決して見下げてはならない。
韓国人が沢山フィリピンで殺されているが。
それは彼らのプライドを傷つけるからだと言われている。
キリスト教徒でありながらラプラプ酋長を尊敬し、また別記事で書くがこれまた救国の英雄リサールを尊敬する国である。
上記写真はマニラのリサール公園の中で撮った。
ラプラプ酋長とリサールの巨大な像があって。
目を引く。
更にはホセ・リサールが処刑された場所も再現されている。
なんというか。フィリピンは誇りを失っていないんである。
そしてファミリーのために必死で働く。
そして出稼ぎをしている人に何かあれば国として非難をする。
日本とはえらい違いだ。
最近も冷蔵庫に閉じ込められ、殺された出稼ぎの女性のことがあってドゥテルテ大統領が出稼ぎ先のクェートに対して怒りの抗議をした。
国交断絶も辞さない姿勢を示した。
クウェートでメイドとして働いていたフィリピン人女性が今月、冷凍庫内に押し込まれた状態で発見され、16日に無言の帰国をした。
ジョアンナ・デマフェリスさんは、レバノン人男性とシリア人女性の夫婦のメイドとして働いていた。雇用主の夫婦は2016年から消息を絶っている。
首都マニラの空港で待ち受けた遺族は、輸送機から降ろされたデマフェリスさんのひつぎに取りすがって号泣した。デマフェリスさんは生前、両親と一番年下のきょうだいを助けたい一心で故郷を離れるのだと語っていたという。
事件はフィリピンとクウェートの外交問題に発展。激怒したフィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領は、アラブ人らは雇ったフィリピン人女性らを日常的にレイプし、毎日21時間働かせ、ごみを食べさせていると非難した。
さらにフィリピン政府はクウェートにおける自国民の新規就労の全面禁止を発表するとともに、数百人を飛行機で帰国させた。この動きは中東諸国の反発を招いている。
当局によると、クウェートで出稼ぎするフィリピン人の数は25万2000人に上っており、その多くがメイドとして働いている。クウェートでは家事労働者には一般の労働法が適用されておらず、虐待や搾取の被害を訴えるフィリピン人労働者が後を絶たない。
日本の腐れ外務省が日本人が被害にあったときに心から怒ってくれるだろうか?
日本を貶めて喜ぶ反日アカヒ新聞が日本人同胞のために心を痛めて記事を書くであろうか?
こう思うと日本は本当に情けない国に成り下がったと思わずにはいられない。
そんなやつほどフィリピンあたりで何の根拠もなく見下げている。
そして実際にはフィリピン人に軽蔑されている。
現在覚醒してきている人たちが多数出てきているのが救いであるが。
自分の先祖を敬わず、国を愛せず家族を愛せない一部日本人がでかい顔をしている悲しい現実を私たちは深い悲しみを持つ必要がある。
まりちゃんも日本人は家族を大事にしない人が多いと言っている。
反省すべきだろう。
そういう点ではフィリピン人のほうがまともだろう。
この誇りの高さはラプラプ酋長を英雄としてあがめる姿からも伺われるわけだが。
先程も書いたがマゼランを殺した人が英雄とされていることは何を意味しているだろうか?
私はフィリピンのキリスト教信仰が非常に屈折したものであると思っている。
もっと深いところでうごめいている何かがある。
心の何処かでキリスト教の欺瞞を憎んでいるんじゃないかとおもう。
その一端が噴出したキリスト教のお祭り。
まずは・・・・
奇祭ブラックナザレ
まりちゃんは全く信用していないと言っていたが。
丸焼けになった黒いイエスの像を信仰するお祭り。
クレージージャーニーでもやってた。
なんか正当じゃないものが信仰さているんである。
そしてホーリーウィークには十字架に貼り付けにされた人が手足に釘を打たれる儀式もある。
志願した信者の人だと思うが。
十字架に貼り付けにされて。
手の平に釘を打ち込まれる((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
でもこちらは正当な儀式だ。
彼らの心のなかには何があるんだろうか?
ピノに美人が多いわけ
フィリピンの歴史を見ていて面白いのはフィリピンでは香辛料が採れなかったんで。
スペインの思惑が外れてしまった。
そこで当時のスペイン帝国はマニラをメキシコなどとの中継貿易基地として発展させるわけだが。
そのためにスペイン人に限らず中国人や日本人など。
様々な国の人達が住み着いた。
歴史的に日本とマニラの結びつきは強い。
スペインガ植民地として支配力を強化し始めた頃。
当時戦国時代であった日本との貿易は盛んとなった。
またキリスト教の布教の拠点にもなった。
日本への布教も、当初はインドのゴアが中心拠点だったが。
マニラにその拠点が移っていく。
戦争で負けたりして日本から脱出し、フィリピンに住み着いた人も多かった。
有名所では豊臣秀吉に追放されたキリシタン大名の高山右近などがいる。
江戸時代初期最大の反乱であった島原の乱もマニラのキリスト教徒との結びつきがあって起こったものだと言われている。
また戦国時代は鉄砲の火薬を求める戦国大名が日本女性を奴隷として売り渡したことは有名な話である。
キリスト教と奴隷貿易は密接に結びついていた。
あとアヘンもだ。
フィリピンの歴史を調べていくと、キリスト教の悪魔性がよく分かる。
私がフランシスコ・ザビエルを悪魔と断ずるのもそんなことがあったからなんだが。
日本とマニラはかなりエグい関係が続いていたんである。
そういうことを断ち切るために行われた鎖国。
日本が鎖国を強化したためにつながりは途絶えてしまったが。
日本とマニラの距離は日本の端から端までの距離と同じぐらいなので。
元々非常に近い。
密接に関わり合っていた事は知っておきたいところだ。
ということで。
勿論より近い支那とも密接な関係があり。
多くの中国人がフィリピンに渡ってきた。
そしてフィリピンの経済は中国人が仕切るようになった。
奴隷もたくさん集められ。
黒人も住まうようになった。
勿論キリスト教布教と同時並行的に強姦も行われたりして。
わずか500年ほどの間に混血が進んだ。
多くの民族が混じり合う地域になった。
フィリピンはまさにアジアにおける人種のるつぼであった。
勿論日本人の血もブレンドされているはずだ。
そしてその急激な血の混ざり合いの中から今のフィリピン人が誕生した。
その結果。
本当にどうでも良いことだが。

嘘ばっかり
混血は美男美女を生み出すとという法則が発動している。
残念ながら混血じゃ無くて土着の血が濃い人も多いが。
そんな中に美女が多数混じっている。
特に白人とかスペイン系ラテン人。
中国人との混血に美人が多い。
まりちゃんもスペイン人と中国人の混血である。
フィリピンは美人コンテストが大好きで。
いたるところでコンテストが行われている。
綺麗かどうか実に関心が高い。
勿論自撮り写真も大好き。
歴史的にみたらかなり悲惨なのに。
明るく、家族思いで、優しい人が多い。
一方でギャングも多いし。
殺人も日常茶飯事というのがフィリピンの姿だ。
少し田舎の方に行くと。
ビレッジごとに門があり。
ガードマンがいる。
そんな場所だが。
おそらく日本の戦国時代もこんな感じだったんじゃないか?と思える。
そんなカオスなフィリピンがとても魅力的。
こういうことはフィリピンパブに行ってもわからないことなんで。
ぜひフィリピンでは恋人を作り、その国の精神的な豊かさに触れていただきたい。
歴史を知るとますますフィリピン人が好きになる。
ピノが可愛く見える。
今回はフィリピンの歴史について、最初の方少しだけ触れてみたが。
続きはまた。書いてみたいとおもう。